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奇跡の「温泉力」 より

第二章ガンの進行が止まった!

番台の「看板娘」大野さんに聞いた

前章でも触れた大野チエ子さんは昭和十六年三月十九日生まれ。番台から、長く共同浴場と、村杉温泉の盛衰を見てきた。
「私は村杉生まれの村杉育ち。ここから七十メートルくらいのところがわが家です。となりの部落の山寺からおじいさんが村杉に来て、私で三代目。私の母も女三人姉妹で婿取り、私も女二人姉妹で婿取り。女系家族なんです。母は九十歳まで生きて三年前に亡くなりました。子供のころの共同浴場は、お風呂が二つあったんです。貧富の差が激しくて、ちょうど今の中国みたいですこてさ。一の湯、二の湯があって、私らは貧しかったから一の湯なんて入らんね。二の湯しか入らんねの。今の風呂は平成八年四月十七日にオープンした。その前の風呂は木造で、三十年あったんさ。その前が二つ風呂があった時代。いや三つあった。一つは貸切風呂だったから。昔は各旅館の中に風呂がなかったから、みんなここに入りに来る。村杉にダンナ様のお客様がくると貸切風呂が立つの。このぐらいの小さい風呂でしょうか。男湯と女湯ふたつあって。私らは二の湯しか入れない。一の湯はダンナ様と湯治に来たお客様。二の湯は私たち農家の人とか。風呂は同じだけど、分けてある。建物も別。入口も別。昔は赤ちゃんだの子供だのうじゃうじゃいるんだもの。うちに風呂がないからみんな入りに来る。銭湯みたいなものだ。うちら地元民は釜番になると、一日分のたきもん(燃やすもの、たきぎ)を持ってくるの。火をたく人はお金もらうけど、私らはたきぎを一日分運んで行く。そして余るとその日のうちに返す。それでお金払わないで入れる。そのかわり旅館の人はお客様も大勢入るから、わたしらは一年に一回ぐらいだけど、何日分もたきもん運ばねばね。だけど、旅館してると、たきもん集める時間がないでしょ。私の母親は働きのいい人だったから、山から牛でたきもん運んで来て、旅館に出してお金頂いて。大事な収入源。

それが私が小学校ぐらいまでだかねぇ、中学校でもまだ毎日、学校行く前に山からたきもん二往復、家に背負ってこねば、学校にいかれねんだがね。朝起きるとたきもん担ぎ。車もねえし。私が昭和十六年生まれだから、昭和三十年ぐらいでしょうかね。お風呂が一つになって、木造の建物になって、それからもう油になったんじゃないでしょうかね。番台は一人の人がして、朝十時に始まるようになった。子供の頃の村杉は、今なんてもんじゃねーわね。もう週末なんか、旅館なんて廊下でもどこでもお客さんふっとつ(いっぱい)。踊り子が来てね。芸者じゃねわね、踊り子。旅館をまわって湯治のお客様に踊りを見せて歩く。おら、子供だったから後ろをぞろぞろついて歩く。またその次の旅館、また次の旅館と。そうするとお客さんが祝儀くれるわけだ。いっぺもらえばいつまでも踊ってる。楽しかったよ。私が小学校、中学校ぐらいのときさ。村杉なんてお店いっぺあったもん、部落に。この前に駕籠屋さんが出て八百屋さんがでて。だって車がこないからなんでも道路のまわりに店が出られる。部落に店屋さんしてた人、何軒もあった。みーんな軒並み店屋さん。温泉に長逗留するお客さんが多かったから。中学校を出てからは村杉の営林署が働き場。杉の種を取ってきて、まいて、芽をだして三年育てて苗木をつくる。そして山へ植林する。農作業といっしょさ。私らは畑のなかで苗を作ってただけ。きつい仕事(植林などの山仕事)するのは年寄りとか男性。苗畑と分かれてたね。初任給は一日に百六十円だった。十六くらいのときの一日の日当。二~三年して月給になって三千二百円かな。

そんとき、桐たんすが一万三千円。私は婿とりだから自分で働いて買わねばならねかったの。お嫁に行く人は親に買ってもらうでしょう。この仕事は五十五歳から。営林署は廃止になって。二人目の子供産んでからだから、二十七歳くらいの時だね、辞めたのは。あんまりそういうの流行らねなったんさ。植林とか苗木育てるとか、そういう時代でなくなった。営林署も下火になってさ。人数、たんだ二人くらいしか使わなかったりしてさ。植林なんてほとんどしてないもん。山になんかお金かけないねかね、今なんて。杉の木なんてタダゆうてもだめだもん、お金つけねば持って行ってもらわんねもん。里山が荒れて問題になってるでしょう。今こそ必要なのにね。旅館は田んぼあがって来てからいくの。昼仕事終って、会社終わって、みんな一時まで働いたの、この辺の人は。朝は飯前に畑、田んぼして、それから会社行ったの。うちも田んぼもあるし畑もあるし、山もあるし。その後に会社、ってか工場行ったの。その辺に工場がいっぱいできたわけさ。ブラインドもしたしさ。ブラインドの組立ては十年ぐらいしたかな。その後、ワイヤハーネスの仕事してね、不景気になって、人間使わなくなって、今度は電気の線をつなぐ車の仕事もして。そろっとリストラの時代がくると、また、五十五歳で共同浴場に乗り換えて(笑)。それでもう十四年目だ。

病気もしたよ。喘息。四十くらい、旅館にいってるときからね、ずーっと。会社行ってるときもね。ここに来ても、まだ喘息だった。田んぼ仕事だのして体冷したりして、難儀するとなる病気だがね。働きすぎると。一番先になったときは、何ヶ月も入院したわね。喘息わからねで。喘息ってことで、水原郷病院に何ヶ月も入院して、何百本も点滴して。ゼイゼイゆってる間はうちに帰れないからね。それが四十になるかならねぐらい。子供が高校生ぐらいのときだね。冬になるとどうしても一日二日は入院してた。季節の変わり目とかね。冬は必ず二、三日の入院していたんさ。それが三年くらい前からなんでもね。ここに勤めたのがいいんだと思うよ。ずっと吸ってるもんね。医者には「もう治りましたから、喘息の治療はいりません。薬もいりません」といわれた。だから、ほんっとに治ったんだわね。今は風邪もひかない。予防接種も打たないよ。ここは三人で職場を守るって約束した。一ヶ月一人が休んでも(ほかの)二人で守る。私も母が入院したときは一ヶ月休んだ。自分が病気でなくても、家族が病気になったら休まんばね。病気になったら職場が無いなんてそんなことにならないように三人で相談して。ずっと続ける。定年が無い限り。病気も治る最高の職場だからね(笑)。誰にも譲れない(笑)一人でもお客さんが来るように、がんばってます。

飲泉

進行ガンからの生還

温泉には今も遠方から、多くの客が通ってくる。うわさを聞き、いちるの望みを託してガン治療に来る人も多い。千葉県から毎月のように通う六十代のご夫婦に話をうかがうことができた。奥さんのガン治療が目的で、リタイアされたご主人と長生館に通っている。

「もともと東京の出身なんです。オイルショックのころ、土地の高騰などを見越して千葉に移りました。昭和四十二年に結婚。私が二十二歳で主人が二十四歳のときです。近所で知り合って。病気が見つかったのは去年の三月でした。大腸ガン。近所のお医者さんに、花粉症でかかっていて、『ここが痛い』といったらエコー検査をして、『すぐに産婦人科に行った方がいい』と言われました。病院で毎年人間ドックを受けているんですが、それが二週間後だったので、そう言ったら『早いほうがいいですよ』。一週間悩んで、それから病院に行きました。 その時点でかなりすすんでました。いわゆる進行ガンです。痛みがでたのは前の年の秋ごろからです。でも、ずっと痛い訳じゃないから。『即入院できますか』と聞かれて。二、三日家に帰りましたが、痛いから、すぐ入院。一ヵ月後に手術をしました。もともと病気もちで。『病気の倉庫』といわれるくらい(笑)。腎臓やって十九歳のとき入院しました。半年間くらいかな。あとは腰痛で入院したりね。

ガンがわかったときは、夢の中で『終った』って感じかな。けっこう、治療も苦しかったですね。手術は一回でしたが、そのあと抗ガン剤、化学療法。三ヶ月くらいですね。二週間に一回で月二回。五日入院して。痛いとかじゃなくて、気持ちが悪いんですよ。髪の毛は少し抜けたぐらい。今はまったく薬は飲んでいません。村杉を知ったのは手術後でした。手術は成功しても、やはり不安でしようがないわけですよ。特に再発とか転移とか。いろいろありますから。友達でガンでなくなった方が何人かいましてね。中の一人が良く知ってましてね。ラジウム温泉がいいとか、あれがいいとか、これがいいとか。福島県の三春の『やわらぎの湯』もラジウム温泉なんですよ。その方と一緒に行ってたんです。仲が良かったから。六、七年前かな。三人で行っていたんだけど、全員ガンだったんですよ。で、私以外の二人とも亡くなって。そこでインターネットで調べたんです。で、全国に有名なラジウム温泉が五つあることがわかったんです。一番有名なのは玉川温泉、それから三朝温泉、三春の「やわらぎの湯」、山梨県の増富温泉、それとここなんですよ。玉川は予約を取るのも入るのも大変だし、三春は知ってるし、三朝もちょっと遠いし、もうちょっとないかな、というんで。新潟県にあるっていうから行ってみるかと。三春はここと違って、お風呂というより、石が敷いてあって、ラジウムが出てくるところがある。玉川温泉に近い。ゴザをしいて。入るのは十分ぐらい。決まっているんです。十分入って休んでって。岩盤浴ですね。岩盤を敷き詰めて、お湯を流して。やっぱり、村杉のように普通にお湯に入ったほうが気持ちがいいし、主人も一緒に行くしね(笑)、そのほうが長続きすると思いました。最初にきたのは去年の十月ですね。それからだいたい月一回くらい来ています。やっぱりぜんぜん違いました。

村杉画像冬景色 013

雪の長生館・露天風呂。「子宝の湯」らしく中央に亀の形をした岩が。

お風呂にのんびり入るっていうのが気分的にいい。 気持ちの問題も大きいです。食べ物とかね。それにあわせて村の散歩でしょ。どこにラドンがでてるとか、ラジウムの話も伺いましたから。自分も庭をまわって歩いて、それがまた楽しい。気分がいいんです。最初に来た時に、大女将が『大丈夫よ!治るわよ』って。その一言がすんごいうれしかった。その時はまだ、病人らしかったんですが、『あ、絶対治る、平気だ』って。そういう感じの大女将ですよね。今は病院で定期的に検診を受けていますが、まったく異常なし。四月の検査で『血液がすごいきれいです』って言われた。自分でも驚きました。今ではガンってことを忘れてます。ここへ来てから体力もついて、体重が五キロ増えました。その頃は東京の人形町にいたんですね、病気してから。病院に近いし、家にいるのがいやだから気分転換で。家だと、散歩に出ても近所の人に会うし、神経使いますから。検診は、五ヶ月おきになりました。一緒に手術した人はまだ二ヶ月に一回とか三ヶ月に一回。体調は全然違います。食べ物の制限もないですし。ただ、『わんこそばはやめてください』って。噛まずに飲むから。消化が悪いんです。おなか切ってるからだめ。 初めきたら、ホントにひなびた村ですよね。

こんなこと言って怒られるかもわからないけど、『え?大丈夫か』なんて言いながら来たら宿はきちんとした構えで、清潔感もあるし、お庭みて、うわーって。それから大女将の人柄。『大丈夫』の一言。皆さん親しみがあります。大きな温泉のような、事務的な感じがない。ここにきたら、散歩をするんです。もともと歩くのが好きで。今日も、まだ白鳥はいないけど瓢湖をまわって、水原の町をまわって、大体一万歩。北方博物館も行ってきました。昨日は牡丹を見てきた。五泉市の牡丹園に行きました。花粉症もある。だけど気にせず、出かけています。そういうのがかえって抵抗力がつくような気がするんです。新発田城も雨の日に行って、新発田の町を回りました。新幹線で来たときは、新潟市を歩いて、万代橋を渡って。あちこち出かけてますね。お風呂には一日、三回入るようにしています。朝起きて一回、お昼から一回、夜ちょこっと。お風呂は源泉なんだけど、流れてくる間に三度かそこら下がって、ぬるくなる。でもラジウム分が含まれてるから、入ってしまえば冷たくないの。むしろあったかい。やわらかい感じがしますね。抵抗が無い。空気浴もあります。ラジウムって空気中に浮くんですってね。 ここは空気浴とお風呂と両方できる。飲泉もあるしね。食べ物もおいしいです。よそへ行くとお肉がどんと出てきたりするけど、そういうのはダメだから。帰りは「うららの森」で有機野菜を買って帰ります。今はほんとに忘れてますよ。あ、わたし病気なんだってね。今は百パーセント、元気ですよ。村杉温泉は、宝物見つけたような感じなんです。主治医の先生もね、『とにかく温泉はのんびりしていいよ』って。リラックス。それにプラス、ラジウム。先生が『どこか温泉行ってるの?』っていうから『ラジウム』。『どこにあるの』って言うから、『新潟の村杉温泉ですよ』って(笑い)。」

出典:開湯700年へ 越後村杉ラジウム温泉 奇跡の「温泉力」より

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