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奇跡の「温泉力」より

第一章「奇跡の温泉」復活の日

村にテレビがやってきた!

旅館はわずか八軒しかない。共同浴場「薬師の湯」を中心に広がる旅館街を、端から端まで歩いて十分足らず。新潟と福島の県境にそびえる五頭山(標高九一二・五m)の山すそにひっそりとたたずむ、「知る人ぞ知る」温泉といわれてきた。

 二〇〇二年元旦。天気・くもり。気温は零下まで冷え込んだ。その日、ふだん静かな森の温泉地は、村始まって以来の大騒ぎの中、新しい年を迎えた。テレビ朝日系列 正月特番「新春!湯けむり生中継!全国温泉決死の生き残り大作戦」。北海道登別、大分湯布院など全国四ケ所の温泉地を選抜。豪華な助っ人の力を借りて立案された「生き残りにかける作戦」を、三時間三十分にわたってドキュメントしようという企画だ。知名度は全国区の三つの温泉と並んで、ただひとつ「無名」の温泉が目を引いた。新潟県阿賀野市村杉温泉。新潟市の南東、福島県境に向かって車で約五十分、五頭温泉郷にその温泉がある。白鳥で有名な瓢湖は途中、車で十分ほどの距離だ。五頭連峰県立自然公園の豊かな森林に囲まれていることも、開湯六百七十年を超える全国屈指のラジウム温泉であることも、当時はあまり知られていない。「なんで村杉温泉?」と、新潟県の人ですら思っただろう。

旅館はわずか八軒しかない。共同浴場「薬師の湯」を中心に広がる旅館街を、端から端まで歩いて十分足らず。新潟と福島の県境にそびえる五頭山(標高九一二・五m)の山すそにひっそりとたたずむ、「知る人ぞ知る」温泉といわれてきた。ここに派遣されたのは、温泉復興立会人として原田大二郎さん、助っ人としてTVチャンピオンのお菓子職人・山田強さん、服部栄養専門学校の服部幸應さんらそうそうたる顔ぶれ。放映前の数ヶ月をかけて、山田さんが名物みやげ「五頭のようかんさま」をプロデュースし、服部さんと「フレンチの鉄人」石鍋裕シェフ監修で各旅館の料理長と田舎鍋料理「醍五味鍋(だいごみなべ)」を創作。当日は、直径一.四メートルの大なべで千人分作ってデビューさせた。たっぷりの野菜と、飛龍頭(ひりょうず)が白い豆乳のスープに浮かぶ、素朴で温まる鍋に参加者の顔がほころんだ。そして、その「生き残り作戦」のハイライトが、村の薬師堂の麓に共同露天風呂を作る、というものだった。指導したのは札幌国際大学の松田忠徳教授。四千六百を超える温泉に入った、「日本唯一の温泉学教授」は村杉の湯を評して、
「日本の温泉地の理想を備えている」
古来からの温泉の王道を、村杉温泉に見たという。
「村杉の源泉は古くから自然湧出していて、源泉に隣接して共同浴場がある。このため、温泉の劣化が少ない」
国内に三千以上といわれる温泉地の中で、温泉が自分の力で地表に湧いてくる例は限られている。

さらに古い薬師堂があり、ふるさとに帰ってきたような雰囲気をかもしだす。薬師堂は、昔から温泉の効能を認められてきた証拠でもある。こうして、共同露天風呂「村杉ラジウム温泉露天風呂」は、薬師堂に上る階段の右脇に作られることになった。温泉は源泉の湧いている場所に近いほど効能が高く、お湯の守り神の薬師様に近いほうが、よりご利益がある。鬱蒼とした杉の巨木に囲まれた薬師堂。その階段を降り、坂道を少し下れば共同浴場「薬師乃湯」。ロケーションはここしかない。

源泉は「薬師乃湯」と同じ薬師乃湯1号井。
泉質・単純放射能温泉(中性低張性低温泉)
泉温・源泉二五・二度
後に発見される三号泉の最大二百四・七マッヘ(*1)に比べると数値は低いが、それでもラドン含有量は五六マッヘ。ガン治療や腰痛など、様々な効能で注目を浴びている「ラジウム温泉」だ。こうして露天風呂造成計画が決定したのはいいが、そこからがたいへんだった。
「どうせならちゃんと後世に残る露天風呂をつくろう」

村杉露天風呂と桜

春、桜の共同露天風呂「村杉ラジウム温泉露天風呂」

当時、観光協会長だった荒木善紀さんたちの奔走が始まる。
「実は私たちも簡単に考えていました。温泉組合に相談すれば、露天風呂の一つくらい簡単にできると思っていたのです。で、まず保健所の衛生課に行った。露天風呂を造ってもいいでしょうか、と。そうしたら大笑いされました。露天風呂を造るには公衆浴場法という法律があって、その施設基準に適合しないといけないのです。若い女の子が入っているところにオジさんが『混浴お願いします』と入っていったら、そりゃあ保健所の前に警察に逮捕されますよって(笑)。『あ、そうか』ということで、保健所中、笑いの渦になってしまいました。公衆浴場法の施設基準は新潟県の場合、三十項目もあって、それを全部クリアしないとダメなのです。一メートル八十センチの人が普通に歩いて覗けない、男女で分ける、トイレがあるなど、様々な項目があります。露天風呂はそれらをぎりぎりクリアする形で、三週間で造りあげました(笑)。予算は六百万円。消費税込みということで(笑)」

保健所の申請、予算の壁、次々と出てくる難問をクリアして、施工が始まったのが十二月三日。その日から三週間、ミゾレが降る中、ライトアップして深夜まで作業が続く。急傾斜地の一番下に十七、八トンのオニギリ型の巨石を敷き、それを土台にして石を組んでいった。完成した露天風呂に入ると、すぐ正面が男湯の脱衣所でまわりこんだ奥に女湯の脱衣所。隣に湯舟がある。巨石に囲まれた岩風呂の周りは林という質素な造りで、野趣たっぷり。湯舟は大人が五~六人入ると狭いくらいだ。

一九八十年代頃まで流行した、大型温泉施設に比べると、いかにも小さく可愛い露天風呂。団体客が激減していく時代の流れを象徴するような企画だった。 こうして共同露天風呂は、全国放送でデビューした。 元旦当日。関係者たちは、押し寄せるであろう問い合わせ電話に対応するため、観光協会の事務局に詰めていた。
「結局、電話はほとんど鳴りませんでした。かかってきたのは数本の電話だけ」
と、荒木さん。
「テレビ局が意図したのは、ひなびた温泉地を復活させようというものでした。こうやってがんばっているからいずれはすばらしい温泉地になるんだよ、と。けれども窓が割れているような場面から始まったものですから、お客様の目から見ると『行きたくない』となったのでしょうね」
かつて一世を風靡した「村杉ラジウム温泉」再生計画。絶好のチャンスと思われたこの企画も結局、空振りに終わる。
「本当の再生計画は、別のところにある」。
村杉温泉の若手経営者たちが苦難の末に学んだのは、「原点に帰る」ことだった。

*1 マッヘは、ラジウム温泉に含まれるラドンの単位。温泉一キログラムに含まれるラドンの量を示したもので、温泉法に定義されている放射能泉は、温鉱泉1キログラム中にラドンRn 30×10-10キュリー、五・五マッヘ以上を含むか、ラジウムRa 1×10-8mg以上を含む温泉。ラドンが八・二五マッヘ以上の場合は療養泉とされる。ラジウム含有量が多いものを特にラジウム泉(温泉)。国内の温泉中、約五%が該当する。詳細は第四章へ。

「世界的レコード」と呼ばれた温泉

今、村杉温泉を訪れる人は、共同浴場だけで年間十万人を超える。休日だけでなく、平日でも客足が絶えない。県立自然公園というロケーション、有機野菜や日本海の魚介類、そしてラジウム温泉。健康、美容といったキーワードが、森林浴とラジウム温泉の村を、いちやく珠玉の温泉地に変貌させつつある。テレビ放映の後、村杉温泉は着実に進化してきた。露天風呂に続いて、「薬師乃湯」の坂の途中には足湯が誕生し、地区一帯で有機栽培にこだわる「ゆうきの里」を宣言。有機野菜を直販する新しい観光物産施設もオープンした。界隈では女性客を中心にいつも笑い声が響く。
「土曜、日曜はもう一日中、満員」
「薬師乃湯」の番台に座る大野チエ子さんが笑う。共同浴場の番台を守る「三人娘」のひとりだ。
「噂を聞いて、全国、いろんなところから人が来るの。腰痛やらガンの治療やらね。休みの日は、飲泉用にポリバケツを持って水汲みに来る人で行列ができるんだから」
マスコミで効能を知った業者が、こっそりタンクローリーを横付けして温泉を汲み、騒ぎになったこともあるのだという。たしかに村杉の湯の効能は「噂」通りらしい。

 取材で「薬師乃湯」に通うたび、その「スゴさ」が少しずつ見えてきた。ウイークデイの昼下がり。一緒に風呂に浸かっていた代行タクシー運転手さんは、ヘルニアの手術後、執刀医に紹介されて通うようになった。三十代後半。少し、足が不自由だ。
「退院して、まるっきり指は動かないし、立ってズボンをはいたり脱いだりも、全然できねかった。自分の意思で右足動かすのがまるっきり出来ない。家の中でも杖をついてたんだ」
―リハビリはたいへんだったでしょう
「リハビリもなにも、この風呂に毎日通ってたら、三ヶ月目には立ってズボンはいたりパンツはいたり出来るようになった。効くよ!」
「仕事中、駐車場から事務所は距離が長いから杖をついてるけど、短い距離なら、もう杖はいらない。指も動く。番台のおばちゃんに聞けばわかるよ。ここまで杖もってきて入ってたんだもん」
あなたみるみる治ったよね~、やっぱ努力家なんだわ、この人は。三ヶ月毎日通ったもんね。ひでぇ形して来たものね~、最初は、体かしがってたんよ。鏡見て自分でわかるくらい体がかしがってたもん。大野さんがニコニコと語る。まるで家族のように常連客は「三人娘」と仲がいい。

 そして、「肝臓にできたガンが、三ヶ月ほどできれいに消えた」「リウマチの発作が出る時期になるとここにきて、発作が出ないようにしている」一緒に肩を並べて風呂に浸り、「あんた、何もんだね」あやしいおじさんを警戒しながら、それでもみんなうれしそうに「村杉温泉のよさ」を語ってくれる。そんな人々の声については詳しく第二章に詳しく書いた。ここでは、この物語の主人公のひとりである、「村杉温泉」の生い立ちを見ておこう。「こんなに『スゴい』」温泉が、なぜそれまであまり知られなかったのか」不思議な気持ちを持ったのは、私だけではないだろう。

村杉画像

 大野さんが番台に座る「薬師乃湯」の入り口には看板が掲げられている。
「ラジウム温泉とお薬師様のご加護で病気が治るため、村杉温泉には医者が育たないと言われています。その昔、薬師堂の回縁には、けがが治って使わなくなった松葉杖がたくさん奉納されていました」村杉は、長寿の村。温泉は「その奇効、殆ど神に近きを見る」とも言われてきた。開湯はおよそ六百七十年以上前にさかのぼる。大正四年に刊行された「村杉の湯」(村杉温泉組合発行)によると、「薬師堂奉額の写なる嶽高山温泉記に依れば、開発の元祖は足利氏の世臣名護屋尾張守が家士荒木正高といへるもの、故あり、食禄を辞して此地に来たり、後醍醐天皇建武二年(注・一三三五年)寅年四月一日より七日間連続して、薬師如来の霊夢を感じ、ついに湧泉を発見せるなりといふ」(一部漢字を現代語に置換 *2)現在の薬師堂もこの荒木正高が建立したもの。以降、荒木正高は従者と共に村に永住し「村杉開拓の祖」と言われる。村杉の名は、正高が植えた杉をもとに、天正十二年(一五八四年)、さらに杉を増殖してからの命名。村は発展し、戸数が次第に増加する。浴場も賑わいを見せていたが、その後戦乱が続く中、次第に衰退し、江戸時代を通じてその存在すら忘れ去られたのだという(「村杉の湯」より)。再びその名が文書に現れるのは、明治に入ってからだ。

明治初期、勤皇の志士として明治維新に活躍した遠藤七郎が、長男の病気療養のため村杉に滞在。村民有志と奔走し、明治八年、薬師堂境内の杉を伐採して、共同浴場と旅館の費用にあてた、とある。
「之より、お客様の菌集すること、以前の盛客にもまさりし」(「村杉の湯」)
当時、「ラジウム」という言葉はまだ見えない。日本で初めてラドン、ラジウムの調査が行われたのは明治四十二年(一九〇九年)。湯河原、伊豆、熱海等で調査が行われた。 「村杉の湯」がラジウム温泉であることが発見されたのは、その五年後、大正三年(一九一四年)のことだ。新潟大学医学部の前身、新潟医専の中山蘭教授、大田鉄郎助教授が二月から四月の間に六十回に及ぶ測定を実施。温泉中にラジウムエマナチオン(ラドン)が四九~六五(平均五六)マッヘ含まれていることが判明する。「無色透明でこれといった温泉成分が見当たらない村杉の湯が、なぜこれほど効果を持つのか」もしや、という思いで放射能泉の測定を行ったという。

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共同浴場「薬師乃湯」と足湯の横にある源泉小屋にかかる看板

 結果は予想通り、というより予想を超える数値を叩き出した。 「村杉ラヂウム温泉」の名前が宣伝チラシや文献に現われるのは、その直後からだ。 「大正三年五月、新潟県医学専門学校教授中山蘭氏により、ラヂウム、エマナチオン発見、その含有量を証明せらるるにおよび、さらに本邦有数の霊泉として天下にその名を知らるるに至れり」(「村杉の湯」)
ちょうどその頃、薬学博士・石津利作氏(当時、内務省東京衛生試験所長)によって、全国的にラジウム含有の温泉調査が行われていた。国内600以上の温泉と鉱泉のラドン含有量が測定され、その結果は大正四年(一九一五年)、セントルイスの万国博覧会で論文として発表されている。
同年六月八日の新潟新聞には「村杉のラジウムは世界的レコード 石津博士発表」のタイトルで、博覧会前の学会で調査結果を発表した際の記事がある。

「湧出瓦斯中にラヂウム、エマナチオンを含むは墺国ゲスチン(注・オーストリアのガスタイン)の百七マッヘを第一として居たが甲州のMでは実に千五百マッヘを含み又島根県池田の三百六十マッヘ、新潟県村杉の百七十マッヘを始め五十乃至七十マッヘを含むものがすこぶる多い。而して墺国ゲスチンの二倍の量を出す処を調べてみると北は北海道から南は九州まで百五十余箇所あって、湧出する場所は約二千に及んでいる。この点からして我国は世界第一に推さるべきである。恨むらくは我当局が未だにラヂウムに冷淡であることである」(新潟新聞より)百年近く前に、「ラヂウムに冷淡」とは恐れ入る。「大正モダン」という言葉が残るように、当時の科学への意識の高さ、文化レベルの高さが伺える記事だ。調査データは当時の測定方法によるもので、もともと気体であるラドンは、測定場所や時間等によって数値が変わる。それでも中山教授や石津利作氏の温泉成分、湧出ガスの調査結果は、後に「国宝級」と絶賛されるだけの衝撃をもって全国に知られていった。その背景に、大正という時代の特殊性があったことは間違いない。突然沸き起こった「ラヂウム」ブームに乗って、「村杉ラヂウム温泉」は全国的に名前が知られるようになる。

 相馬御風、野口雨情、河東碧梧桐、近衛文麿、橋本閑雪等々。時代を代表する文化人がこの地に逗留し、数々の書画を旅館に残している。旅館数も昭和初期には現在の倍にあたる十七軒。その営業ぶりは、「総じて、本温泉場の風、旅館は概ね祖先の営業振りを襲ひ、極めて質朴にして、僅かに湯銭、室料のみを受け、飲食の如きは各自の自弁に任す。此故に多少の不自由を忍べば極めて軽便に入浴するを得べし。近来、ラヂウム温泉たること世に知れ渡りて、遠きは九州東京より北海道に至る全国の遊子を引き寄せ、紳士淑女の滞在相次ぐを以って、接待の程度大に上りたれども、他に比すれば、猶ほ、遥かに低廉なり」(「村杉の湯」)

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黄金時代の宿風景(写真上右)と数棟に分かれていた初代の「薬師乃湯」  大正時代に導入されたT型フォード(写真下)

当時は湯治場に近い経営だったことがわかる。その繁栄を示すエピソードとして、こんな話もある。大正八年、県下で二番目の乗合自動車として、登場した温泉バス。その写真が、現在の郷土資料館に残されている。村杉温泉と、隣接する出湯温泉の旅館が共同出資で「村杉出湯自動車組合」を設立。車は八人乗りのフォードで、水原の汽車場(駅)から出湯、村杉温泉間を一日四往復走った。日当が三十五銭ほどだった当時、運賃は八十五銭。それでも人気が高く、一日十二往復したこともあったという。年間来客十万人。大正十二年にフォードが増車されるほどで、村杉温泉にとっては文字通り「第一期黄金時代」だった。村杉は大正から昭和初期、一世を風靡した。

*2 当時の時代背景について。中世、日本に仏教文化の伝来に平行して、医療や医術に関する知識が流入した。寺僧が温泉地や湯治場を設けることも多く、住民たちはそれによって病気や怪我が治ると、温泉に対する感謝から「温泉信仰」が根付くようになったという。ここから薬師如来を「温泉の神様」として祀り、温泉寺も建立されるようになる。温泉は療養、湯治の場であるとともに、信仰の場として認識されるようになった。

プラス

山懐に抱かれるように広がる村杉温泉の街並み

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