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奇跡の「温泉力」より

第一章「奇跡の温泉」復活の日

このままでは未来はない

火山国・日本は、温泉の数、種類、湧出量ともに世界一とされる。 新潟県だけでも温泉地がある市町村数は三十三(全国十八位)。宿泊施設のある温泉地数は北海道、長野に次いで第三位の百五十件(平成十九年) もある。  特に、一九八〇年代はバブル期とも重なり、「温泉ブーム」に沸いた。  リゾート法が制定された一九八六年、温泉利用者の年間延べ人数は国民総数に近い、一億二千万人を突破。一九八九年、全国の市町村に一億円を交付した「ふるさと創生事業」がきっかけで、この交付金を使って全国三百近くの市町村が温泉掘削に挑戦したという。  バブルの崩壊は、そのわずか三年ほど後のことだ。  湯布院と村杉。本多博士に同時期、同じように活性化の道を示されたふたつの温泉が、その後たどった道はかなり異なる。それが平成の時代に入り、同じ番組でならび取り上げられることになったことに不思議な因縁を感じてしまう。

 湯布院は、かつてはひなびた温泉で、団体観光客向けの大型ホテルや歓楽街は整備されていなかった。それが後にプラスに転じる。昭和四十年代から毎夏、町を上げて手作りの映画祭や音楽祭を開催。歓楽色を抑えて女性が訪れたくなるような環境整備を続ける。昭和の時代を通じて歓楽街化やゴルフ場建設を阻み、異端扱いされた時期もある。 バブル期絶頂の一九九〇年には、押し寄せる大型開発計画を規制するため、「潤いのあるまちづくり条例」を制定。ここには「成長の管理」や「地域ごとの展開の重視」が明記されていた。 村杉温泉でも、本多博士の講話の後、公園計画が推進された足跡が、逸話として残されている。おそらく異なっていたのは、村杉温泉では大正から昭和にかけて、「ラジウム」ブームに乗って客が増加し続けた点だろう。恵まれた資源と、続く歓楽化の波が小さな温泉を舞い上がらせ、やがて潮がひいた時、旅館は半減。村は浜に打ち上げられかけていた。  湯布院を支えたのは、東京から戻った若手旅館経営者たち。かつて映画人や博物館のスタッフだった彼らがたどった道は、後にNHK「プロジェクトX」などで紹介されている。  同じように、バブルの崩壊を前後して、村杉温泉を変えようとして立ち上がったのも川上さん、荒木善紀さん(長生館経営・村杉温泉組合長)ら、若手旅館経営者だった。

 冒頭で紹介したテレビ番組放映当時、観光協会長を務めていた荒木善紀さんは川上さんと同じ昭和三十六年生まれの同級生。「風雅の宿 長生館」第三十代当主で、現在温泉組合長を務めている。 荒木さんたちは、荒木謙介さんの玉川温泉視察後の提言を受けて、二〇〇〇年十二月に「ラジウム推進委員会」を立ち上げていた。現在副組合長の荒木徳栄さんを委員長とし、歴代の組合長、組合員らで組織。目的は二〇四.七マッヘという驚異の数値を持つ源泉・薬師乃湯三号井の湯を各旅館に分湯し、文字通り「ラジウム温泉で勝負する」することだった。 この事業は、国内屈指の温泉研究者、甘露寺泰雄さん(当時、財団法人・中央温泉研究所所長)監修によって計画を策定。二〇〇四年七月、事業を完成する。 さらにその活動を通じて、多くの学者が村杉を訪れる。甘露寺さんの他にも、大妻女子大学の堀内公子教授、世界的な地質学の権威・島津光夫新潟大学名誉教授・・。一級の研究者がこぞって村杉ラジウム温泉に興味をもち、その驚異的な効能を研究、発表してくれた。 方向は見えたが、それでもまだ客は増えない。 「このままでは村杉温泉の未来はない」 という思いが、さらに強まっていた頃だ。 本多博士の提言、一線級の学者による効能の証明。玉川温泉の衝撃。食の分野でも、村杉温泉がある笹神地区は、全国でもっとも早い時期から有機栽培に取り組んでいた。行政との連携も進んだ。 「県の観光課と『わいがや会議』というものをやっていまして、五頭温泉郷は必ず新潟県の中心観光地にできると言われていました。第二の湯布院だと。ラジウム温泉に森林浴、有機栽培。これだけ魅力のあるところだから、みんなで力を合わせて一歩一歩進んでいかないと、ということでした」

二〇〇三年五月。温泉入り口に向かい合って、食と緑の交流センター 五頭山麓うららの森がオープン。  二〇〇四年七月。温泉組合が主催し、大妻女子大の放射能泉の権威・堀内公子教授を招いて「村杉温泉ラジウム研究会」を開催。  森林と食とラジウム温泉。キーワードがひとつひとつからみあっていく。 そして、大きな転機がやってきた。 「決定的だったのが長野県白骨温泉の偽装温泉問題」 と川上さんは振り返る。二〇〇四年、週刊誌でスクープされた事件だ。 白濁で有名な温泉が白濁しなくなり、窮余の策として入浴剤を添加したことが問題となった。この事件を契機に、全国的に温泉の泉質調査が強化された。結果、続々と偽装「温泉」が摘発され、かえって薬湯の希少性に注目が集まっていく。 「温泉法には十年に一回は調べ直しをしなさい、と書いてあるんですが、実際には保健所の方も来なかったし、大半の施設が調べられてはいなかった。村杉温泉は、十年に一回、お湯のことをクソ真面目に調べていました」(川上さん) この事件が内外に「村杉ラジウム温泉」の価値を再認識させた。二〇〇五年十二月。地元雑誌が「玉川温泉を凌駕する驚異の泉質」と大々的に紹介。新潟県内で「ガンに効くらしい」というクチコミや、医師による紹介が次第に増加していく。

そして、集客にもっとも大きな影響を与えたのが、二〇〇六年十二月、「薬師乃湯」足湯のオープンだった。ジェットバスやジャクジーを備えたものでもちろん、無料。爆発的な人気を得た。 「それをきっかけにラジウムの含有量全国トップレベルということで、マスコミの方々に招待状を出しました。オープニング・レセプションにお呼びしたのです。それでドーンと記事を書いて頂いて。それから次から次へと、マスコミがマスコミを呼ぶみたいな形で。マスコミの効果はこれだけ大きいんだということで、それからも色々とマスコミ向けにプレスリリースを送ったりして、取材にもどんどん来て頂けるようになりました。村杉温泉がラジウム温泉だなんて全然知らなかったという方達が、『すごいんだね』とワーワーなりまして。それまでは年間六万人くらいだった共同浴場のお客様が、一年後に十万人を超えるくらいにまで増えました」(荒木さん) その後、組合で飲泉許可を取得し、施設の整備も進められた。同じ頃、島津光夫名誉教授が本格的な地質調査を実施する。湯脈と伏流水が組み合わさった「複合型放射能泉」という、きわめてまれな構造。そのために、他では見られない量のラドンが村杉一帯に発生していることが、科学的に解明された。 さらに、二〇〇八年には、新潟県産業労働観光部が提唱する「健康ビジネス連峰」のモデル事業に認定。新潟薬科大学などと連携して、森林浴と有機食材、ラジウム温泉を組み合わせた、新しい滞在型「健康ツーリズム」事業を開始していく。村杉周辺の自然環境を守り育成する事業とともに、関わる様々な人々の思いが螺旋のようにからみあいながら、ひとつの大きな形を作ろうとしている。  こうして、村杉温泉は再び、全国に知られ始めた。 「村杉ラジウム温泉」復活の物語は、今はまだ、そのプロローグに過ぎないのかもしれない。  新しい夢の語り手たちによって、本多博士の構想した滞在保養地型温泉の構想は、より成熟した形で、一歩ずつ全貌を見せていくはずだ。

「かくして一般にこの土地を清浄ならしめ、前述の諸設備をなし、漸次改良を加ふるにおいては、本土地の繁栄期して待つべきものである」(本多静六博士「村杉ラヂウム温泉風景利用策」)

足湯

共同浴場の坂上に新しく設置された足湯。終日にぎわう。

出典:開湯700年へ 越後村杉ラジウム温泉 奇跡の「温泉力」より

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