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放射能泉の安全に関するガイドブックより

第一章「日本の温泉の現状」

森 繁哉、堀内 公子、前田 勇、山村 順次、猪熊 茂子、早坂 信哉、後藤 康彰

温泉・気候・物理医学の今日的意義
猪熊 茂子(日本温泉気候物理医学会理事長)

医学は「生命予後の担保」を一義的とします。痛みを取るのも「命あっての物種」となります。今日ではQOL(quality of life、生活の質)の考え方と自己決定権が確立するに至っていますが。

(1)自然界の中のヒト

 長い医学の歴史の中で疾病の診断方法は大変進歩しました。一方それと相俟って、大層協力な治癒法が築きあげられてきて、現代医学では「介入」という言葉が登場しました。すなわち疾病を自然の流れに任せる状態に、外部から人工的・積極的に手を加えて干渉し、経過を変えてしまうことです。人類(ヒト)が薬物、外科手術、放射線、生物製剤、遺伝子操作などを手にできるようになった極く最近の言葉です。古(いにしえ)には、ヒトの身体感覚は研ぎ澄まされていて、身体が環境から受ける刺激も今日とは比べ物にならず半端ではありませんでした。自己の身体の変調の感覚、外部刺激に対する自己の反応の変調などの自覚症状を診断に用いたでしょう。

今日で言う理学的所見、すなわち診察で認める、健常なヒトとは明らかに異なる身体の状態を見て(診て)いたはずです。今日より鋭く診た可能性もあります。また、それを治療にも用いたはずです。寒冷で変調を来たせば温める、それも手を炙る、火に当る、より身体全体を湯に入れる方が有効的である、など。

(2)自然界からの刺激に対する反応を観察する医学法

自然界からの刺激に対する身体の反応を観察する、それを診断や治療に用いるという視点は、現代医学のどの分野が担うでしょうか。日本医学会には現在110の分科会があって加入順に番号が振られ、それぞれの持ち場は互いに少しずつ被(かぶ)りながら日本医学のほぼ全ての領域を網羅しています。日本温泉気候物理医学会(温気)はNO.15で1934年設立。この領域をカバーする臨床系分科会は温気に代表されます。頭に付く「温泉」医学の印象が強いのですが、設立以来年代毎に変遷があって、現在は臨床物理医学の側面が頓(とみ)に重要となってきます。

(3)温泉医学の起こり

温泉医学について振り返ってみます。温泉医学(balneology)はヨーロッパで発達しました。医学の進歩は、他の学問領域もそうではありますがしばしば戦争とともに発展した側面があります。すなわち傷病兵の、また軍馬の療養のためで、経験に基づいたもであったでしょう。最も有名な温泉施設遺跡はローマのカラカラ大浴場で、これは傷病兵のためのものではありませんが、古代ローマ帝国は版図拡大に沿って温泉を広めました。地中海沿岸は火山があり温泉がありますが、活火山に乏しい東・北ヨーロッパでも古くから温泉が利用されてきました。

医学が学問としての大裁を整えるに従い、温泉の効能にも医学的視点が注がれる時代があり、或いはまた視点が外れる時期もありました。疫病の中でも急性感染症で瞬く間に人口が激減するような事態では人々はほとんど無力でありました。一方、慢性感染症の原因治療が出来ない時代にあっては、結核療養所が温泉地に置かれるなどがありました。強力な「介入」が登場すると温泉医学への陽は陰ります。こういった状況は欧州でも日本でも同様でした。

(4)日本の温泉学

日本書紀には、631年摂津国有間温泉への行幸をはじめとして幾つかの温泉地への行幸・行啓が記述されているそうです。明治になると温泉療法を含めた古来の日本医学は顧みられなくなったと思われがちです。しかし、津々浦々の湯地場は残り、1912年設立の別府の海軍病院を始めとして陸軍病院・海軍病院が温泉地に開設されました。国立の療養所が温泉地に置かれる流れもありました。大学医学部については、東京大学に教授の名を冠さない「物療内科」が置かれたのは1926年です。そして1931年勅令による九州大学温泉治療学研究所を嚆矢に6国立大学に温泉研究施設が置かれました。そして1935年には日本温泉気候物理医学会(温気)が設立されました。身体の物理・化学刺激に対する反応の研究が多く蓄積された時代です。その後、リウマチ学会、リハビリステーション医学会は温気からの流れを一つとして夫々1957年、1963年に設立されました。しかし1982年以降2003年までに6大学の施設は順次衣替えをするか廃止となりました。

一方この流れの中でも、温気の会員数は増加し、1980年には500名に満たなかった会員数が1990年台には1000名を越え、現在1900名、35温泉療法医1010名、専門医219名となっています。

(5)温泉の作用

泉の3要素は、水と熱と科学成分です。温泉療法の作用はこれらによる物理的作用、化学的作用に保養地作用が付加されます。  物理的作用は熱、静水圧、浮力、粘性によるもので、下に述べる温泉の「一般的適応症」に対応するものです。科学的作用は、溶存する物質によるもので「泉質別適応症」に対応する作用です。放射能泉の成分は後者に含められます。保養地効果は気候医学で検討・解明される作用の他に、生活習慣による要素の変更作用が含まれます。これまで主に欧州と日本とで温泉医学(balneology)が蓄積されてきましたが、温気のみならず例えば国際学術団体であるISMH(International Society of Medical ology and Climatology)の名にみるように、気候医学が一緒に含まれるのは、自然界におけるヒト固有の身体機能の観察を視点としていることの表れです。

日本の温泉は「温泉法」で規定され、公共に供する場合は、「成分、禁忌症及び入浴又は飲用上の注意」の掲示が義務づけられています。適応症・禁忌症については、国の、evidenceに基づく見直しをしようとする動きを受けて、温気が作業を行い、観光環境相省に提言を提出しています。

(6)有効で安全な温泉・入浴利用

ヒトの身体の安全を担保するのは医学の対象領域です。疾病の診断・治療に用いる医療技術であればなおのことですが、日常生活についても医学の対象です。温泉・入浴に関連して生じる事故については、その事例や症例群の検討で得られる重要な科学的知見があり、それを元に予防策を講じることができます。ひとつの極地医学とも言い得ます。

(7)温泉医学の今日における意義

治療」が「介入」に言葉を変えても、介入は、ヒトが生まれながらに持っている生命そのものの力を引き出す手段に他なりません。ヒトの持つ力を引き出す療法は、ヒトが経験的に連綿と行なってきたものです。ヒトの生きる領域が地球上の極地から宇宙に広がっても一貫として変わり得ないものは、生命そのものの力を活かすことです。今日こそむしろそぼ考え方が必要とされています。ヒトが他者から頂き利用するのは、地球の或いは自然の有する力を活かすことの他にはありません。

ヒトの身体は諸々の疾病を「自然緩解」させます。多くのヒトは夫々自分の変調や疾病を自ら緩解させる力を有しています。また一方、Raynaud現象(冷刺激などに反応して指先が真っ白になる。膠原病などで見られる)に代表されるように、自然からの刺激に対する生命反応の狂いが病態成立に寄与していて、病態診断にも治療評価にも有用であることも見られます。

患者自身の感覚の鋭さ、自覚症状の語らいの正確さは、言葉をもったヒト独自のもので、医学の拠る基本です。自然現象としての温泉あるいは入浴に、特に日本人は早くから拠りました。ヒトの身体の自然界にある刺激への反応。を見極めて利用する、この発送が今日こそ重いもののはずです。

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