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奇跡の「温泉力」より

第六章 資料編「村杉の湯」

附近の名勝

■薬師堂 温泉の元祖、荒木正高夢想の薬師佛を祭る。湧泉個所の上、端山の半腹を削りて境内とす。明治四十四年、温泉の繁栄に随うて境内を取広げ旧堂を移転再建したるものなり。十仭の石磴、鬱々たる老杉、浴客をして覚えず、森厳の感を催さしむ。

あな尊と御法の慈悲や湧く泉
                  竹堂

■須賀神社 往昔は字城山の麓にありしを、本村移転の際、村内に安置したるもの、自ら形勝の地位を占め、眺望絶佳、祭神は須佐乃男命なり。該境内に俚俗、山の神と称へ、花柳病に霊験著しとし、生殖器崇拝の名残を留むる奇異なる一品を奉納するの別社あり。

里人の心の中を、すがの宮
     すがすがしくも拂ふ松風
                  葉守

■穴居の跡 長生館庭園の前景を為せる官山中に二個の石窟あり。或はアイヌ人穴居の跡ならむといふも確むべき証左なし。因に、旧村墓地附近に往々矢の根石を発掘することあり。

岩屋より豊旗雲の立にけり
                  寄東

■城山 村の東南に屹立する一山あり。旧記に、城資長の城跡なりと。伝えらる。満山、躑躅多く、初夏、殆んど紅繍團の光景を呈す。山巓に一巨石あり。又上杉氏の時代に金鉱の採掘せる遺跡も存せり。山麓の雑草中に、鍛工の用いたる吹革用痛風土管及び鉱糞の累々たるを認む。

ほととぎすやちたび啼きて吐ける血の
       染めて燃ゆるか山つつじ花
                  雪舎

■魚骨岩 本村を去る五町、元村杉に近き渡戸川の橋畔に在り。白堊質の粘板岩を劈きて、中に魚類の骨格を印するものあるを珍とす。親鸞上人魚形石の旧蹟として、越後七不思議の一に算せらるといふ。小藤理学博士往年研究せらるる所ありたりき。

春風やとげ岩さがす二人づれ
                  無媒子

■渡戸川の螢 俗に山螢と称し、大形なるを以て知らる。数千万群集して所謂螢合戦を演ずる時、熾光清流に映じて暗夜にる鬚眉を数へつ可しといへり。

五月闇橋の姿は見えねども
      飛ぶ螢こそ蜘手なしけれ
                  葉守

■菱ヶ嶽の諸瀑布 本村より二十町内外、菱ヶ嶽の山腹に懸る数條の瀑布、小は十五六尺より大は百尺に至るものあり。大瀧、魚留瀧等著名なり。樹深く岩峙ち、之を過ぎれば夏猶ほ寒く、壮観、言語に絶せり。

斧斤會不入 林邃震懸淙
裂帛一声嗄 怪禽移澗松
                 鐵硯

■大日原 本村より保田街道の中央に横はる荒原にして、陸軍敞舎あり。新発田十五旅団村松三十連隊の兵士此地に来りて練兵し。関山演習地と並び称せらる。籏野美乃里氏の詰田牧場之に近し。又有名なる大日堂あり。このあたり秋草並に雲雀の名所とす。

折りためし秋の千草の花筐
     心も満ちてかへる野邊かな
                 停雲

■大日堂 大日原の一隅にあり。本尊大日如来は行基菩薩の御手彫佛と称し、乙村乙賓寺の本尊と同一の霊験ありとして尊崇せらる。堂の開基は口碑に依れば、聖武天皇の朝、行基菩薩、北陸の佛陀有縁の土地を求めて此高原を得、草庵を結んで暫時居住せられしが起源なりといふ。此地古へは草水村より五十公野村へ通ずる行路なりしが如く、堂に因みて附近に大字大日の部落あり。其開発者小八なるもの、本佛の示現を畏みて親村大室との訴訟に勝ちしを以て爾来 開墾の祖神と仰がれ、地方人大和巡りより帰国の後は必ず之に参拝するを例とす。


■式内旦飯野神社 大字宮の下にあり。譽田別命、息長足姫命、仲津彦命、豊受姫命を祭る。社地高爽にして神園苔蒸し、石磴塵浄し。本殿・拝殿・供御所・御神楽殿の外、末社幾棟、古檜老杉蓊欝たる間に散在す。社傳に依れば、 本社の創建は、仁徳天皇の御宇にあり、神功皇后三韓征伐に従ひたる長野麻呂といふもの抜群の武功ありしを以て、皇后の御弓、御刀、御衣の三種を拝領し、越前豊浦より此地に来り、一社を設けて神器を祀る。其子孫穂多麻呂に至り、 大に意を勧農に注ぎ、仁徳天皇、御即位元年の八月、耕田の産米を大山皇子に献じ、其勧誘に依り、末社に豊受姫命を配祀し、旦飯野神社と称す。里人毎秋新穀を以て醴酒を醸し、神前に供する俗あり。現今社格は村社なれども地方第一 の古社たり。先年大字金屋の豪農五十嵐甚藏氏、仙台稲城石を以て神蹟顕彰の碑を建て、東久世通禧伯の自筆詠歌を刻す。

旦飯野の神のやしろの朝詣
    袖ふきかへす風の涼しさ

■二本松 大字福井新防風林中に在り。此邊一帯、古は上野原と云ふ。一大湖沼の畔、二本の老松あり。萬治年間、岩船郡村上城主松平大和守直矩公、当国御入部の記念として栽うる所翠色天を摩して、松籟の颯々たる亦偉観たるを失はず。

夕霧の上野が原を過ぎくれば
     家路戀ふらし馬つまづくも
                 籏野古樹

■親鸞上人三度栗の旧蹟 保田村孝順寺内、二本松を距る二十五町、傍の松林中にあり。老幹は既に枯死せるも、伝説によれば、当年の開基は、渡邊党の競が子、専念坊源五郎にして、聖人巡錫の当時、其母と共に之れを請じて、焼栗を供養したるに、聖人感賞の餘り自像を刻み、又六字の名号を書して之に送り、且つ宗門開発の前途を、祝して其栗を土中に埋めたるに、不思議にも芽を出して生長し、一年三度花咲き実熟せり。又、其葉先き両岐に分るるものあり。惜しむらくは、今は若木数本あるのみ。

一年に三度の法を通はせて
     心やす田に残す焼栗

■聖人腰掛石 大字大室遠藤伊右衛門氏邸内にあり。三度栗旧蹟地は、元、遠藤氏の所有なりしを、因縁に依り孝順寺へ寄付し、この石のみを自邸に引来りたるなりといふ。参詣者多し。

掻きなでて石に涙や苔の花
               寄東

■狢京の藤 詰田牧場の附近、丸山の北にあり。塊石磊々たる處、古昔狢の群居せしより此名あり。初夏山藤の紫房を掛くるありて、詩人の感興を惹く。

咲きみだれ松より松に巌より
     巌にかかる山藤の花
               越路雪子


■草水の観音寺 応仁元年、月窓明潭和尚の開基にして上杉謙信公の尊奉浅からず。蒲原第二番の補陀所なり。戊辰戦争の当時、東軍の本営となれり。近く阿賀野川を望む。

呼倣赤壁亦奇哉 断岸長江雲際開
鼙皷無声山似拭 伹看隊隊白帆来
               廉堂

■羽黒の優婆尊 水原街道大字羽黒にあり。路傍に石柵を遶らし堂宇を設く。本尊は行基菩薩の作と称せられ、天正十四年四月出湯華報寺八世立山昌健和尚の奉安に係る。以前は大字次郎丸、高徳寺にありたるものの如し。縁起によれば、聖武天皇の天平五年、行基菩薩出湯村滞留の砌、五頭山下に測らず霊木を得て、如何なる佛像を彫んかと勘考しつつありしに、懸衣婆忽然として虚空に形体を現じ、我は毘盧遮那佛の化現にして、外には極悪忿怒の姿を示し、内には慈悲大愍の涙を蔵すとありたれば、即ち一刀三禮して之を刻し、長しへに衆生の化縁に具へしなりといふ。堂は萱葺にして、総欅造、彫刻頗る雅趣あり。縁日は毎月廿日にして、参詣者絡繹たり。


■三十三観音 大正二年中、信徒講中の寄附により、優婆尊堂背面真光寺山に設け、西国三十三番補陀所に擬せり。眺望絶佳なり。


■隈の松原 大字金屋の南端、旧会津街道の入口にあり。萬治二年、松平大和守直矩、村上城に封ぜらるるや、農民をして業務の暇ごとに、道路を開き並木を植えしめたる名残にして、途中の一小丘に、天保中、村の篤学五十嵐岩蔭翁の建てたる碑あり。左の古歌を録す。

月も日も障らぬ隈の松原を
     千歳とむすぶ岩蔭のやど
                 權大納言源通知

碑背にも左の歌あれども、腐蝕して文字を辨ぜず。

■陣ヶ峰、古戦場並に戊辰戦地 応徳の頃、当国に黒鳥兵衛の難ありし際、此附近一帯戦地となり、兵衛の従弟、真鳥政任、官軍に追はれ、阿賀野川を渉り逃げ来りて嶽高山の麓を過り、漸く五十公野に達せりといふ。切旗、馬下、論瀬、渡場、嶽高、陣ケ峰等、軍事に因みたる地名の存するは、当時、戦場たりもの也。又明治維新の際、戊辰七月廿五日、官軍の将高島鞆之助、本郡太夫濱に上陸して賊軍を追撃するや、草水に潰走して五頭連峰は広がれる敵を、羽黒前山、桔梗ヶ峯方面より之を擊攘したりき。桔梗ヶ峰は所謂陣ヶ峯にして、之を望めば山容一種の風趣を帯び人をして轉た懐古の情に堪へざらしむ。

温泉土産

ラヂウム煎餅、ラヂウムライト、竹細工、川の芋、川魚

附近の温泉

当温泉より水原に達する県道の半途に、出湯、今板の温泉あり。本温泉に浴するものにして、徒然の際歴游するに便なりとす。出湯の湯は遊離炭酸を含み、皮膚病に卓効あり。熱度はやや村杉より高く、旅館は洞春館、白根屋の二軒最も著はれ、各々内湯あり。共同湯は華報寺の権利に属するものにして、同寺は羽黒と並んで霊験いやちこなる優婆尊を奉置す。頗る古刹なり。五頭山中の瀑布、出湯川の工事等、附近に見るべきもの多し。今板は新規再興せられたる浴場にして、出湯・村杉の中間に位す。竹細工の副業を以て有名なり。草水温泉は会津街道に在り。嘉永元年の発見にして、設備は未だ整はず。尚ほ五十澤の湯、鹿の瀬の湯等、附近幾多の温泉あり。若し之をして連絡せしめば、或は箱根、別府の如き、大規模の温泉場を構成するに至らん乎。

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