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奇跡の「温泉力」より

第一章「奇跡の温泉」復活の日

「ラヂウム」が消えた日

道をはさんで共同浴場「薬師乃湯」と向かい合う「川上屋旅館」第三十四代当主・川上博治さん。阿賀野市観光協会長を務める温泉の若手旅館経営者だ。川上さんは、昭和三十六年にこの場所で生まれ育った生粋の「村杉っ子」。穏やかな外見からはわからない、情熱の人。村杉の過去、現在を知り、未来を語るキーマンのひとりだ。
「昭和に入ってから、村杉温泉は隆盛の一途をたどりました。当時は、逗留型といいますか、一定期間滞在することが多かったんですね。次第に受け入れる側は宴会中心の経営になり、芸者さんが何十人もいる温泉になった。湯治場だったのが、いつか歓楽型になっていくんです」
そこに拍車をかけたのが、「村杉ラヂウム温泉」から「ラヂウム」の四文字が消えたことだった、と川上さんはいう。

「親父から聞いた話です。 昭和三十九年、新潟では一巡目の国体が開催されました。この頃、高度経済成長と合わせて温泉旅館の『近代化』が全国的に推奨され、団体客中心の大型近代旅館へ建て替えが進んだのです」国体の参加者を宿泊させるための室数が足りなかったせいもあるのだろう。県からは「改築のための補助金」が出たらしい。旅館はこぞって施設拡大に走る。
「それがよかったのか悪かったのか。遠い昔の話です」
その「設備競争」とあわせて、「ラヂウム」の持つ、湯治場のイメージを嫌ったのだろうか。「県の指導」もあって、「村杉ラヂウム温泉」はその年を境に「ラヂウム」を捨て、「村杉温泉」という、「ふつうの温泉」に変わる。この経緯について、文献はほとんど残されていない。新潟県庁で調べても、当時の資料は残っていない。どの部署でどういう「指導」がなされたのか、今となっては調べようがない、と、気の毒そうに担当部署の若い職員は言った。それが時代の流れだった、としか今は言えない。そして、どういう意図が働いていたにせよ、その時、村杉温泉が大きな財産を失ったこともまた、間違いない事実である。一時は団体客で集客が延びた時期もあっただろう。しかし、それが長く続くことはなかった。近代的な建物、効率的な食事、遊興。金さえあれば真似ができる。それなら「村杉」でなくてもいい。

 忘年会は社員総出で温泉宴会。旅情も、療養もどこかに消えた。部屋数が百を超える和風近代旅館が各地に建てられ、建物は贅を競う。大量の食事を用意するために、自前ではなく、仕出しの専門業者が入り込んだ。食材も見かけはいかにも豪華だが、より安く、より大量の処理のために、質へのこだわりは犠牲にされていく。米どころ新潟のコシヒカリを期待し、全国で名の知れた地酒を求めても、実際には県外の安い米を炊いた状態で仕入れ、酒は全国に流通する大手の酒を平気で使う。そんな旅館が新潟県内の各地で見られた。それでも客が入ったのだから、誰も文句は言わない。ただ、小さな資本のひなびた温泉地に、そのツケは次第に重くのしかかっていく。

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もっと近くにもっと豪華な施設ができていくと、次第に客足は遠のいた。 毎年のように通ってくれた個人客も、団体客と同じ扱いで満足するはずがない。観光調査で、新潟県を訪れた個人客の満足度が五十パーセント以下に低下したのも理由があった。 今年九十二歳、かつて村の老舗旅館で働いていた荒木ハナさんはそんな流れを見てきた一人だ。
「私は小学校三年生のとき、この村に養女に来ました。そのあと、今の主人と養子縁組してから、村の旅館に三十年お世話になりました。この歳まで病気もせず、元気にいられるのは、ここのお風呂のおかげです。昔は今と違って、八百屋があり天ぷらやがあり、市が立ったものです。旅館が十五~十六軒ありましたかね。よく流行っていました。湯治客で。大きな旅館ほど流行らなかったんです、昔は。 東京あたりの衆議院だの、代議士さんが来なさって。佐藤栄作(元首相)さんなんかが泊まったころは、背中流したもんです。他にもえらいお方がいっぱい来た。善光寺の立派なお坊さん方も来た。捨てたもんじゃなかったけど、だんだん一般の人がこなくなりました。その後、何軒も旅館がつぶれました。今は半分もなくなった。昔は足が悪い、腰が悪いって女の人が来てたけどね」

せっかくの財産を持ちながら、村杉温泉もまたそれを捨てた競争に巻き込まれ、敗れかけていた。高度経済成長の喧騒を経て、八十年代、九十年代と、時代が進むにつれて、「村杉温泉」は次第にその輝きを失っていく。それは全国三千百三十九の温泉地(平成二十二年二月・日本温泉総合研究所調べ)それぞれに訪れた試練の時だったかもしれない。「村杉温泉は我々の時代で結束して変革していかなければならない」復興の夢を語っていた若手リーダー、荒木隆一さん(当時、村杉温泉観光協会会長・環翠楼館主)が、交通事故で不慮の死を遂げたのもその頃だ。その後、旅館は最盛期の半分の八軒にまで減った。「このままじゃ駄目だ」川上さんたちに危機感が募っていた。志半ばで早逝した先輩のためにも。葛藤が続く。平成六年(一九九四年)十一月。バブルが弾けて、しばらく過ぎた秋の日、村杉温泉を訪れた人がいる。埼玉県南埼玉郡菖蒲町役場の職員、渋谷克美さん。同町の出身で名誉町民でもある「日本の公園の父」本多静六博士が村杉温泉に残した足跡を追っていた。

照会を受けた笹神村役場(当時)の依頼で、渋谷さんに会ったのが若手経営者たちだった。
「菖蒲町の方とお会いして、本多静六ゆかりの地ということが初めてわかったんですね。それが、ラジウム温泉について勉強を始めるきっかけになりました」
本多静六博士(一八六六―一九五二)は日本初の林学博士として知られる。東京農林大学(現在の東京大学農学部)卒業。日本の林学の基礎を築き、東京の日比谷公園を始め、各地で公園の設計に携わった。かたわら、「健康と文化の向上のためには自然が大切」という思想のもとに、全国各地で観光と自然を融合させるまちづくりの提言を行っていく。そのひとつが年間三百万人以上の集客を誇る「地域おこしのお手本」、大分県の湯布院。大正十三年、博士はここで講演を行い、その内容が「湯布院温泉発展策」としてまとめられる。
「今日の文明社会、機械工業の発展は、空気がよごれ、スモッグがいっぱいの年に生活する人々を増加させ、市民は時々野外生活をして心身の保養をしなければ健康を維持することがむずかしくなりました。そこで、森林公園や国立公園がつくられるようになり、とくに市街地や温泉場付近の山林はほとんどみんな森林公園に利用されるようになってきたのです。」

たとえば、ドイツのバーデンバーデンという町がそういう健康づくり、公園づくりを考えている町です」(「湯布院温泉発展策」)として、保養地型温泉地の先駆、バーデンバーデンのスパ施設、森林浴によるオゾンの重要性などを紹介。八十年近く前に、食事と宿泊を別料金でもらう「泊食分離」まで説いていた。恐るべき先見性。他にも、自動車専用道路の整備、石などの自然素材を用いたベンチの設置、動物園、温室、テニスコートなどの運動施設・・・。この本は平成十八年、湯布院観光協会によって「ゆふいんのこどもたちに贈るまちづくりの本」という名前で復刻されている。前書きにあるとおり、
「それから約八十年の年月が過ぎました。けれど、本多博士の話はちっとも古くさくなりません。いまも参考になるすばらしいまちづくりの知恵がいっぱいです」
湯布院にとって本多博士がいかに重要な存在だったか。この本は物語ってくれる。村杉温泉も、博士が訪問し、提言を行った温泉地のひとつだった。それも、湯布院訪問に先立つ数年前、ラジウム泉が発見されて五年後の大正八年にさかのぼる。

博士にとっては、健康のための森林と温泉、というテーマにこれほど当てはまる温泉はなかったのだろう。当時、島根県に次ぐ国内二番目の赤松の大森林を持ち(後、室戸台風、松喰虫の被害で赤松林は壊滅)、国内屈指のラジウム泉が発見されたばかりの村杉。温泉の有志の強い働きかけによって招かれた気鋭の学者は、二年にわたる調査の末に、大正十年六月十六日、村の温泉場で「村杉ラヂウム温泉風景利用策」と題する講話を行った。川上さんたちは、その話をまとめた資料が存在することを初めて知らされた。それはそのまま現代に通じる、普遍的な内容だった。
「村杉温泉には優れた三つの特徴がある。多量のラジウムを含有する温泉。広大な松林。清麗なる渓流・豊富なる水 である」
これらの三要素を有機的に活用できるよう、村杉温泉全体を公園として整備するよう提言し、「村杉遊園地計画平面図」(一三六ページ)を示した。湯布院でも示された自動車道路の整備、登山道、森林浴の効用、散歩道の整備、展望台や公園施設の整備、動物園、植物園、名物から水力発電施設の整備に至るまで、それは驚くほどの細部にわたる。その全体は、湯布院にならい、現代語に訳したものを第六章に再録した。ここでは、敬意をもってその結びを紹介しておきたい。

「一般に地方風を帯び、質素にして田舎風のところありて、華々しからざるところが多くは永続きするものである。徒に多大の経費を投じて華美なる設備をなし、或いは活動写真とか、或いは芝居とか種々の設備あるところは一時は盛なるも、必ず盛衰あるものである。」

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これらは金力を以って模倣し得るものであって、何処にても造り得るが故である。 故にその土地の特徴を利用して金銭を以って模すべからざる自然的のもたらしむるを要す。かくして一般にこの土地を清浄ならしめ、前述の諸設備をなし、漸次改良を加ふるにおいては、本土地の繁栄期して待つべきものである」 まるで未来を見てきたかのようなこの資料に、川上さんたちの思いがぴたりと重なった。 「そこには、まさに自分たちが今、取り組もうとしていることが語られていた」 こんな昔に、先人がお手本を用意してくれていた。気持ちが昂ぶった。  そしてその構想を実現に移すきっかけが訪れる。

一九九六年四月、現在の「薬師乃湯」の新築工事が終わった頃、荒木謙介さん(現在、村杉温泉組合副組合長)は秋田県の玉川温泉を訪れて驚愕した。全国各地からラジウム温泉の効能を求めて集まる人々。「半年先まで予約がいっぱい」という、地元旅館の話が耳に焼きついた。 「聞いてみると、薬師堂があり、すぐそばにラジウム温泉の源泉があって、入浴施設が建っている。まるで村杉と同じじゃないか」  戻ってから村杉温泉の歴史と過去の経緯を調査した。 「原点はラジウム温泉だ。これからの村杉はラジウム泉の効能勝負で進んでいかなくてはならない」。若手経営者たちを集め、熱弁をふるった。  本当の村杉温泉復活の物語はここから始まった、と言っていいだろう。  健康、森林、水、そしてかけがえのないラジウム温泉。 贅と大量消費の時代から、健康、美容、エコロジー、癒しの時代へ。社会が大きく舵を切る中で、「村杉ラヂウム温泉風景利用策」に描かれた、健康と環境の「村杉ラジウム温泉」復活こそが「生き残りの戦略」となる。 それは地域の中で、ゆっくりと希望から確信に変わっていった。

「七十数年前、村杉の有志の力により作られた『村杉ラヂウム温泉風景利用策』は時を越え、今また新たに地域の若い人々に受け継がれようとしている」 (渋谷克美「本多博士、新潟県笹神村村杉温泉の発展策を論じる」―「本多静六通信」第六号より) 

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